江戸の町は、物を大切にし、リユースやリサイクルが進んだ循環型都市であったと言われていますが、もちろんリサイクルルートに乗らないごみも発生し、ごみを日常生活の場から排除し,処理するための仕組みも整備されてきました。
江戸時代の初期には、ごみは近くの空き地や川へ捨てられており、ごみが散乱し、交通の阻害や悪臭などに住民が悩まされていました。
このため、幕府は明暦元年(1655年)、ごみを空き地等へ捨てることを禁じ、深川永代浦(今の東京都江東区富岡付近)の地先海面をごみの処分場(投棄場所)に指定しました。
また、永代浦へ向けて船積みするまでの間、ごみを一時保管しておく、大芥留(おおあくたどめ)という場所を町の各所に設けました。
このように、それまでは身近な場所で簡単に捨てることができたごみですが、遠く離れた場所まで運ぶこととされ、江戸の町のごみ処理は、現代と同じように、収集・運搬・処分のステップを経るようになりました。
また、当初は、永代浦まで運ぶのに特に制限はなく、町人たちは各自で所有する船を使ったり、船を雇ったりしていましたが、寛文2年(1662年)には、幕府は、指定の請負人以外の者がごみの収集を行い、ごみ運搬船を持つことを禁止しました。
これら請負人は、ルールに沿ってごみを処理する代わりに、幕府から営業権を保護されており、現代の廃棄物処理業者に対する許可制度と通じるところがあるといえます。
ただし、これらの仕組みは、町人の制度であり、武家屋敷では、個別に出入りを許した農家に、農作物の調達とあわせてし尿やごみの処理を請け負わせていました。
江戸の町のごみ処理
2024年08月31日
コラム